2023年度の奨学生に選ばれた作文を一部ご紹介します。
様々な国・地域出身の奨学生達の将来の夢や留学を決めた理由を、ご理解いただけると思います。
将来の夢
台湾
私の将来の夢は、アニメーターになることです。日本を選んだ理由は、日本のアニメが私に夢を与えてくれたからです。
子どもの頃、私は「花田少年史」という作品を見ました。
この作品は、主人公の花田一路がおバケたちと織り成す笑いと涙の物語で、友情や家族愛が心に響くものでした。
この作品を通じて、私は命の尊さについて改めて考えることができました。
アニメーションは単なるエンターテイメントにとどまらず、文化や価値観を拡げ、異なる国や民族を結びつける力も持っていると感じました。
これによって、アニメが人々の心に響き、社会に良い影響を与えることができると思います。
このようなアニメを作り出すために、私は日本の文化に興味を持ち、日本へ留学することを決めました。
今後は、自身の技術を磨きながら、人々を励まし感動させるようなアニメ作品を制作したいと考えています。
そのためには、日本のアニメーション業界での経験を積むことが重要だと思っています。
日本に留学することで、素晴らしい教育環境や先進的な技術に触れることができると期待しています。
香港
誰もが子供の頃から大人になるまでの間に、夢を沢山持つと思います。
中学生の頃から将来やりたいことが決まっている人もいるし、夢についてまだ悩んでいる人もいます。
以前の私も、自分の夢を素直に言えませんでした。
私の家はとても伝統的な家族だったので、幼い頃からいろいろな夢を持っていましたが、よく両親に反対されました。
そのような環境で育ったので、中学時代は成績は良かったものの、
みんなが将来のことを考えているときに、私は自分の時間を無駄にしていました。
しかし、中学3年生の時に私の考えが変わる出来事が起こりました。
お世話になっていた先生がICUに入院したとの知らせが届きました。
そして、恩師は、私が何かを成し遂げるところを見る前に帰らぬ人となってしまいました。
その時、自分の人生を大事にして夢を持ちたいと思い考えたのが日本への留学です。
留学の理由は、アジアの文化を学び、アジア全体の社会に貢献したいからです。
そのため、日本で学んだ後、科学分野での能力を高めるために香港のサイエンスパークで働きたいです。
留学を通じて自分自身の経験を増やし、日本で学んだ知識を母国で活かすことができると同時に、
4か国語を話せるという強みを活かして香港、日本及び他のアジア諸国の交流を増やすことができます。
李さんのお話を聞いた時、まさに国際的な方だと思いました。
李さんのように、アジアの架け橋になりたいと思ったため、LSH奨学金を応募しました。
今後も勉学に励みながら、精進していきたいです。
韓国
韓国で中高生の頃、日本のドラマやバラエティ番組を見るのが流行でした。
日本で働いていた母の影響もあって日本で留学生活をしながら日本文化に接してみたいと思いました。
しかし、家庭の事情で留学は経済的に厳しくて夢を諦めました。
韓国で看護師になった後、健康上の理由で日本にいる母と一緒に暮らすことになり、日本留学生活を始めました。
留学生活を始めてから日本語を一生懸命勉強しました。
留学初期には日本語が難しく感じられて日本での社会生活が私とは遠い話に感じました。
しかし,少しずつ日本語の勉強の基礎を磨いて見ると、また違う夢を持つようになりました。
それは日本の病院の手術室の看護師になることです。
今年12月にJLPTN1の合格を目指して、再来年に日本看護師国家試験を受験する予定です。
日本の社会に良く適応するためにこれから日本語と日本文化を学ぶようにこつこつ努力します。
夢を叶えるまで言語的にも文化的な違うにおいて苦難も多いと思いますが、
故李秀賢さんの最後の文である「苦難も逆境も私の人生の半分だからです。
いつでも受け入れる用意はあるし、それを乗り越える勇気もあります。」
と言うように私に直面している苦難に対して避けず、乗り越えて後悔のない人生を過ごしたいです。
私の祖母はいつも「人を助ける善良な性格を持ちなさい」と言いました。
その言葉に従って、日本病院で手術室看護師として就職した後、私に与えられた業務に忠実に働いて、
患者達の命を救うのに役立つ愛をいっぱい持っている看護師になりたいです。
機会があれば日本の看護書籍を韓国語に翻訳する業務もしたいです。
韓国語に翻訳したら、看護学生や看護師に役に立つと思います。
最後にLSHアジア奨学会に志願する機会をいただきとても嬉しいです。
李秀賢さんの前向きな考えと犠牲精神を見習い、韓日の架け橋の役割を担いたいです。
マレーシア
私の将来の夢は、映画監督になることです。
この夢は、他の人が聞いたら、少し破天荒な夢だと思うかもしれません。
しかし、これは一時的な衝動で考えているわけではありません。
きっかけは、クラスのみんなで作った曲のミュージックビデオの監督をしたことでした。
高校の卒業を記念して、同級生と力を合わせて卒業の曲を作ることになり、そのMVの監督をしたのです。
その過程で、チームが卒業のために一生懸命に頑張っているというのに、コロナのせいでなかなかうまく進めないことがたくさんありました。
しかし私たちは諦めず、全てを乗り越えて、ついに完成させることができました。いま思い出しても、あの経験にはなぜかドキドキするのです。
もちろん、ドキドキするためだけに映画監督になりたいのではありません。
映画や動画のよい点は、それを使って世界中の人々に大切なメッセージを伝えられるということです。
それが、映画の力です。
自分の経験したこと、感じていること、味わってきたことを、物語としてみんなに伝えたいと思うのです。
映画監督になるなど、到底実現できるはずがないと言う人もいるかもしれません。
私の覚悟を疑う人もいるかもしれません。それでも、私にはいつか必ず作りたい映画があります。
それは私の母の物語です。母が亡くなったとき、母の物語を映画にすると決めました。
それがどんなに難しく見えても、夢は人に力を与えます。
どんなに苦しい環境でも、夢があれば絶対に乗り切れると、ある時私は気が付きました。
日本の特撮映画が世界中で楽しまれたように、日本で、マレーシアで、アジアで、世界の国々で、私の映画がみんなに見てもらえる日を夢見ています。
バングラデシュ
私の将来の夢は義肢の研究を進めることだ。
この世界には多くの人々がすべての手足や臓器を持って生まれるように恵まれていない。
また、事故で手足を失った不幸な人も少なくない。
私のような健康な人間にとっては、彼らの苦闘や苦しみを理解することは不可能かもしれない。
私は高校である友人がいた。彼は片腕を失っていた。
その身体欠陥のせいでいかにいじめられたか、私には想像することもできない。
明らかに彼は他人に心を閉ざしていた。
しかし、ある出来事がきっかけで彼は私に心を開き、私たちは最良の友人になった。
ある日、彼は私に、もし両腕があったら、最初に私を抱きしめると言ってくれた。
その日から、私は彼の夢を叶えることを決めた。
彼が本物の腕を取り戻すことはできなくても、私は彼が両腕を持ち、普通の生活をできるようにしたいと思う。
義手に関する研究はまだ不十分だと思う。
義手や義足は神経信号を完全に受け取ることができず、リアルタイムに反応することができない。
そのため、私は義肢の分野を豊かにするために自分の貢献をしたいと考えている。
いつか事故や出生時に臓器を失った人、私の友人のような人が、健康に普通の人と同じように普通の生活を過ごすことができる日が来ることを願っている。
中国
私の将来の夢は弁護士になることだ。
その理由は日本で日本語を上手く話せない外国人の方々に法律上の支援と生活上の援助をするためだ。
この将来の夢を見つけたきっかけは、韓国に留学した時に友達の身に起きた一つの事件だった。
ある日、友達が突然詐欺容疑で警察に呼び出され、何日も学校に来れず、ずっと調査を受けていた。
あとから聞いた話だが、ネットで知り合った人が実は詐欺犯で、騙し取った荷物を受け取る時に隣にいたのが理由だったとのことだ。
そのため、共犯者だと思われたようだ。
その時の友達は外国人で、ことばもほとんど通じず、警察に向けて何も話せなかった。
最後は弁護士を通じてよく説明したあと、無実が証明されたが、
その時、友達のために、或いはこのような窮地に陥った人のために何かしたい気持ちは今でも心の中に残っている。
それと法律だけではなく、外国人は生活する中でいろんな問題が生じやすく、それも助けたいと思っている。
私は生れも育ちも中国で、初めて韓国に行った時、韓国語一つも分からず、とても心細かったが、
いろいろな人の助けがあって、留学生活を楽しく過ごすことができた。だから私も他の人の力になりたいと思っている。
今はこの夢を叶うために、中央大学のロースクールを目指して勉強している。
確かに外国人にとって弁護士になるのはとても難しいことだが、人を助けられるのはとてもやりがいがあることだと思う。
それと中国語と学んだ韓国語も生かすことができる。
これまでの留学生活を振り返ってみると、多くの方からの助けがなかったら、途中で諦めていたかもしれない。
これからは以前他の人が私を助けてくれたように、自分もこの温もりを他人に感じさせたいと思う。
留学を決めた理由
ベトナム
私はベトナムから参りました。
2020年8月に高校を卒業し、多くの友人が大学や専門学校に入学しましたが私は日本に留学することを決めました。
私にとって、日本留学の夢は中学生のころから常に燃え続けており、ちがう空の下で新しい知識の習得を求めてきました。
私の家はそれほど裕福な家庭ではありませんが、私が一人娘であるため両親は常に私のことを世話が必要な子供だと考えております。
私は両親に迷惑をかけたくないので、その夢を心の中だけで大切にしてきました。
しかし、私が大人になって自立し、将来両親を経済的にも支えていくために新しい道を切り開き、両親に恩返しをしたいと思い、日本留学を計画しました。
しかし、日本に来るその年、ベトナム留学生に関する否定的な話やアルバイトで問題を起こした話など、良くない話を沢山読みました。
その時私はなぜそんなに嫌な話ばかり伝わってくるのか、悲しくなりました。
しかし、自分が実際に留学して、体験してみなければ本当のことはわからないと気を取り直して、留学の夢を実現するため、出発することにしました。
困難なことがいつでも起こりうることはわかっており、それに直面したら立ち向かう心の準備はできています。
挑戦の中に、幸運をつかむチャンスがあると、常に自分に言い聞かせ、そのチャンスを逃したくないから、日本留学を実行しました。
ミャンマー
日本に来る前、西ヤンゴン工科大学で電気工学を勉強していた。
ところが、コロナの感染者が国で見つかり、大学は閉校したので、家でしか勉強できる機会がなかった。
それから、様々な理由で経営学に興味を持つようになった。
将来より良い生活をするため立派な経営者になるため今の能力は不十分だと思い、留学することを決心した。
高校を卒業した後、日本語にとても興味があった。
日本人が一生懸命で、そして時間を守ること、真面目に働くことなどを知った。
日本で最も印象的なことの一つは、日本が著しく発展したことである。
私もそのことに関して関心を持っていた。
日本の大学でいろいろな知識を蓄えたいと思い留学先は日本を選択した。
大学卒業後は、関心を持っている学部と関わりがあるサービス業に就きたいと考えている。
私の両親は私を日本へ留学させるために裕福な家庭ではないものの、
必要なことすべて全力で援助してくれたので、迷うことなく、決意できた。
現在、母国では経営学科の専門家が不足している。
母国で必要とされている所を自分なりに頑張って貢献して行きたいと思う。