氏 名 | 李秀賢(イ・スヒョン、Lee Soo Hyun) |
生 れ | 1974年7月13日 韓国蔚山市 |
特 技 | テコンドー、マウンテンバイク、ギター |
経歴 | |
1981.03 | 樂敏初等学校 入学 |
1987.02 | 同校 卒業 |
1990.02 | 東來中学校 卒業 |
1993.02 | 來城(ネソン)高等学校 卒業 |
1993.03 | 高麗大学校(鳥致院キャンパス) 入学 |
1994.02 | 軍隊 入隊 |
1996.04 | 除隊 |
1996 | 高麗大学校 復学 |
1997.07 | 自転車で韓国一周 |
2000.01 | 赤門会日本語学校 入学 |
2000.08 | 富士山に登る |
2001.01.26 | JR新大久保駅にて死亡(享年26歳) |
家族・友人から見た李秀賢さん
父は李盛大さん、母は辛潤賛さん。
生まれたときの体重は4000g。とても大きな赤ちゃんでした。辛潤賛さんは「秀賢が生まれるとき、私は子育ての本をたくさん読みましたが、その中の一冊に忘れられない言葉がありました。「母親が子どもに干渉しすぎると、子どもはお母さん以上の器になれない」という旨の言葉です」と語られています。
秀賢とスポーツの出会いはテコンドーでした。小学校に上がる前からテコンドーに興味を持ち始めました。テコンドーは小学校卒業まで続け、3級までいきました。その後たくさんの賞をいただき、高学年にもなると、部屋の壁は賞状でいっぱいになりました。
辛潤賛さんは続けます。「学校から帰ると、すぐ家を飛びだすのです。週末も、ほとんど一日中、出っ放し。韓国では学校に残って「自由勉強」をする子供もが多いので秀賢も勉強していると思っていました。ところが実際はバンドの練習だったのですね」と。
1993年、秀賢は晴れて高麗大学の貿易学科に入学しました。高麗大学は“韓国の早稲田大学”と称されています。妹の李秀珍さんは「兄が高麗大の鳥致院(チョチウォン)キャンパスに通っていたころ、私も慶星大学の学生でした。私にとって兄は、頼れるパソコン・インストラクターでもありました。パソコンについてわからないことがあると、すぐに兄に電話をして聞いたものです」と、この頃を振り返られています。
1994年2月、大学1年の課程を終えた秀賢は軍隊へ行くことにしました。父親の李盛大さんは「秀賢の将来については、おしつけがましく「どういう方向へ進め」と言ったことはありませんが、父親としてはいろいろアドバイスしました。とにかく私が学歴がなくて苦労してきましたから、秀賢にはしっかり学業をまっとうしてから社会にでてもらいたかったですね」と語られています。
1998年7月18~30日、秀賢は“一大イベント”を実行しました。夏休みを利用して韓国一周マウンテンバイクの旅に出たのです。海外よりまず自分の国をよく知りたいとの気持ちがあったからです。また、体力にも自信があったのでしょう。
秀賢は大学2年から日本語を学ぶようになりました。4年生になった時には、はっきりと日本留学を目指して、前期が終わった1998年8月以降は、大学を休学して日本に行く準備を始めました。1999年8月27日、秀賢は赤門会日本語学校に入学願書を提出しました。彼は入学動機の中で次のように書いています。
「私は国際貿易に関心があって高麗大学の貿易学科に入学しました。そこでは、ほとんどの学生達のように英語圏の国との貿易関係について勉強しました。日本についての知識は他の韓国人と同様に多少の先入観がありました。それから専門の科目の「地域研究」という科目を受けながら日本について社会などすべての分野に興味を感じ、特にわが国と日本との貿易関係に強い関心を抱きました。第二外国語として日本語を約1年6箇月を勉強して、もっと日本について詳しく知りたくなりました。そこで日本を直接体験するため日本語学校への入学を決心しました。日本語学校での勉強後、日本で見たり聞いたり感じたりしたことを基にして韓国または日本の貿易会社に入社し、両国の貿易についての第一人者になりたいと思います」。
彼の日本と韓国の“架け橋”になろうとする意気込みが伝わってきます。
2001年1月、秀賢は赤門会日本後学校に入るため日本に向かいました。到着したばかりの成田空港で、日本での友人の一人となる洪一基(ホン・イルギ)さんと出会います。空港では秀賢は、左手にエレキギター、右手にノート型パソコンを持っていました。洪さんも音楽好きで、パソコンも得意だったことから、2人はすぐに意気投合しました。
2000年8月21~26日の日程で、念願の富士山に登りました。洪さんの言葉です。
「日本で楽しかった思い出は、富士山に登ったこと、フィットネスセンターのお風呂でいろいろ話しながら背中を流しあったことなどです。富士山は東京から五号目までは自転車で、それ以降は自転車を押すか、かつぐかして頂上までいきました。七号目を過ぎたところで野宿をしました。そんなことをする人は珍しかったようで、知らない人に一緒に写真をとってほしいと言われました。頂上に着いた時、ビールで乾杯しました。ぬるかったけど、おいしかったです」。
洪さんが事故当日のことを話してくださいました。
「2001年1月26日の午後7時頃、僕は赤門会の4階にある自習室にいました。連絡が入った時「秀賢かもしれない」と言われ、新大久保病院に行き、確認しました。そこにはマスコミの記者がいました。翌日テレビを見たら、自分の話したことが全国に流れていて、一夜のうちに世界が変わりました。僕は赤門会の学生会長であったし、友人として秀賢とのいい思い出も持っていたので、ご両親に秀賢のことを伝えるのは自分しかいないと思って、自ら望んで成田空港に行きました。僕は軍隊で人が亡くなったのを見ていますし、またそこで冷静さを保つ訓練もしています。それで、秀賢の死を受け止め、秀賢の遺体に向き合うことができました。ですが、空港でお母さんの顔を見て、「本当なの?」という表情をされたとき、頭の中が真っ白になってしまいました」。
「私は人生を最大限に楽しんで暮らしたい。「楽しむ」といっても、毎日遊んで暮らすということではありません。仕事をしていても、勉強をしていても楽しい。そういう生き方です。後ろ向きの、後悔する生き方だけはしたくありません。だから、そういう自分を作っていこうと努力しています。もちろん、つらい日や大変なときもあるけれど、それを避けて、後退する生き方だけはしたくない。その苦難も逆境も、私の人生の半分だからです。いつでも受け入れる用意はあるし、それを乗り越える勇気もあります」。
【参考文献】
- 辛潤賛『息子よ! 韓国に架ける「命の橋」』潮出版社
- 佐桑徹(編者)『李秀賢物語』LSHアジア奨学会
- 機関誌『かけはし 14号』
- 李秀賢ホームページ『
http://www.soohyunlee.com/』(※現在はアクセスできません)